歴史資料館

日本のように雨の多い国では,屋根瓦がずいぶん役に立っています。瓦というものを、いつ誰が考え出したのか、これはよくわかりませんが、焼き物の瓦は中国で発明されました。そして朝鮮半島を経てわが国に伝えられましたが、いろいろ改良が加えられ、今ではすっかりわが国の風土にとけこんだものとなり、もともと中国から始まったとは誰も考えていないほどです。

瓦は丸瓦と平瓦を組み合わせて雨や雪に対応するものでしたが、次第に種類が増えていきました。そして現代では装飾として作られたものもずいぶん見られます。屋根の形によって葺きかたも、また使われる瓦も異なります。軒先を飾ることはもちろん、けらばにも文様を飾った瓦を使います。

大棟や降り棟は高く積み、飾り瓦を置いておりますし、その先端には鬼瓦を据えています。大棟といえば、古い時代には鴟尾をその先端にのせていました。時代が降り、城が築かれるようになると鯱がのせられるようになります。それから直接屋根のうえではありませんが、隅木の先や垂木の先を飾るために隅木蓋瓦や垂木先瓦などが用いられることもあります。このように、屋根の部分によっていろいろなものが作られました。

中国大陸の瓦

アジアで発見されている最も古い瓦は、中国西周時代初期のもので、陝西省の宮殿遺跡の発掘調査で出土しています。西周時代の初期といいますと、今から約三千年ちかくも昔のことです。そのころの瓦は大形の平瓦だけで、建物の棟や曲り屋ふうの屋根の谷間に使われたようです。

西周時代の中期になりますと、丸瓦と平瓦とが組み合わされて使われるようになります。そして西周時代の終りちかくのころには、丸瓦の先端に文様をつけた部分「瓦当」がとりつけられるようになりました。ただ、そのころの瓦当は丸瓦の形のまま、半円形です。それで半瓦当と呼んでいます。文様として樹木や怪獣などが使われています。

その後、漢代になりますと瓦当は現在見られるような円形になります。文様としてめでたい語句や宮殿の名などの文字を用いたり、朱雀や玄武などの四神を飾ったりします。それ以後には、蓮華文が用いられるようになります。中国の南のほうでは単弁蓮華文が、北のほうでは複弁蓮華文が用いられたようです。

軒平瓦が作られるようになるのはずっと後の時代になります。中国の瓦というと緑・青・黄などのうわぐすりをかけたものを思いおこします。敦煌の壁画などにもうわぐすりをかけた瓦を葺いた宮殿が描かれておりまして、6世紀はじめごろの階の時代にはそうした瓦がすでに使われていたようです。

朝鮮半島の瓦

西暦前108年に、朝鮮半島の北部に漢が楽浪郡をおきました。楽浪郡の中心部は現在の平壌地域です。ここには漢と同じような瓦葺きの宮殿が建てられました。したがってそこに使われた瓦は、漢の瓦そのものといってもよいほどです。

その後、朝鮮半島には高句麗、百済、新羅が国を興します。
いちばん北に国を建てた高句麗の瓦は楽浪の影響を強く受けており、良く似たものが作られます。後になると、中国北朝の影響を受けて蓮弁やパルメットを加えたもの、蓮弁と蓮弁の間に珠文を入れたものなどが作られます。

高句麗の次に国を建てた百済では、中国南朝の影響を受けた蓮華文が用いられます。蓮弁の中に何の飾りももたないあっさりとした文様です。
いちばん遅れて国を建てた新羅では、高句麗と百済両ほうの影響を受けた文様が用いられます。これら三国が独立していたころにはまだ軒平瓦は作られませんでした。

7世紀なかば過ぎになって新羅が三国を統一しますが、それから後の新羅の瓦の文様はたいへん賑やかなものとなります。蓮華文もこみいったものになります。顔が人で体は鳥という迦陵頻伽を飾ったりします。軒平瓦もこのころから作られるようになります。文様の多くは唐華文ですが、葡萄唐草文や飛天なども用いられています。また蓮華文のセンや棟端瓦も作られ、中には緑釉製品も見られます。

飛鳥時代の瓦

崇峻天皇元年(588)、わが国ではじめての寺造りが始まりました。寺の名を飛鳥寺と言います。この寺を造るときに百済から各ほう面の技術者が渡来しました。その中に瓦博士とか瓦師と呼ばれた4人の瓦作りの技術者がおりました。彼らが作った瓦の文様は、当然のことながら当時の百済で使われていたものにそっくりでした。

わが国では飛鳥寺の建立をきっかけとして、法隆寺(若草伽藍)、豊浦寺、四天王寺というように次々と寺が建てられていきました。

瓦の文様にもいろいろなものが見られるようになります。蓮弁の中央に1本の線が入り、蓮弁と蓮弁の間に珠点がおかれるもの、あるいは獣面を飾ったもの、これは高句麗の要素をそなえたものと考えられております。また蓮弁の中央に1本の線が入いり、中房の周囲に溝がめぐるものが作られたりしますが、これは古新羅の影響を受けたものでしょう。

このように、初期の瓦は百済、高句麗、新羅3か国の影響を受けたものが多く見られますが、このほかにも多種多様な文様が見られ、蓮弁の数も6弁、7弁、9弁、11弁というようにバラエティーに富んでいます。また、この時代にすでに法隆寺と坂田寺で軒平瓦が使われています。文様は型によらず、瓦に直接彫っています。

白鳳時代の瓦

7世紀なかばころになると、軒丸瓦の蓮弁の中に小さな蓮弁状のものが加わります。これを子葉と呼んでおります。そして軒平瓦に弧を何本か引いて文様としたものが使われるようになります。

7世紀なかばを過ぎると軒丸瓦の文様として、蓮弁が2つずつ1組になった複弁蓮華文が多く見られるようになります。さらに文様面は大きく作られ、蓮子が中央の1個を中心に二重にめぐり、外縁には三角形を連ねた鋸歯文がめぐります。瓦全体が大ぶりに作られ、瓦当の直径が18センチぐらいあります。軒平瓦は重弧文だけでなく、忍冬唐草文を飾ったものが作られます。

7世紀末近くになると、軒丸瓦の外区が内縁と外縁の2つに分けられ、内縁に珠文を、外縁に鋸歯文をめぐらすというように、文様がだんだん複雑になります。軒平瓦の文様は忍冬唐草文が変化した波状の唐草文、それも一ほう向に反転していく偏行唐草文が多く使われます。外区には、上に珠文を、脇と下に鋸歯文をというように、こちらも文様が複雑になります。

このように、7世紀後半はいろいろな文様が作られますが、それだけ寺造りが盛んに行われたことを示しています。持統天皇のころには、全国でおそらく500か寺近く建てられただろうと考えられています。そして藤原宮で瓦葺き宮殿が建てられ、寺以外に瓦が茸かれた建物のはじめてのものとなりました。

奈良時代の瓦

この時代の瓦は前代よりひとまわり小さくなり、軒丸瓦の直径は16センチぐらいです。軒瓦の文様の主流は軒丸瓦では複弁蓮華文、軒平瓦では均整唐草文ですが、重圏文軒丸瓦や重郭文軒平瓦のような簡単な文様をもつもの、その逆に複雑な蓮華文や唐草文を飾った、新羅の影響を受けたものも見られます。

この時代、宮殿や役所でも瓦がごく普通に使われるようになりますので、その文様の種類も多くなります。また、特殊な瓦としまして緑のうわぐすりをかけた緑紬の瓦や、二彩・三彩の瓦が見られます。それらは平城宮や、平城京に建てられた薬師寺や大安寺などで用いられました。

奈良時代のなかば過ぎごろ、国分寺の造営工事が行われました。国ごとに僧寺と尼寺が1か寺ずつ建てられたのですが、国分寺の建立を手助けした各地の豪族たちも自分の寺を新たに建てたり、すでに建てた寺を修理したりします。それらの寺々の瓦を見ますと、大和、とくに平城宮で使われた瓦と同じような文様をもつものが目立ちます。国分寺の造営工事の際に大和からいろいろな面で技術援助が行われた様子を知ることができます。

軒平瓦の断面形を見ますと、奈良時代の前半では瓦当部に近い下面に段がついていますが、後半になりますとゆるい曲線を描いて平瓦部につながっていきます。こんなところにも年代の差があらわれています。

平安時代の瓦

平安時代のはじめごろ、平安宮内裏や朝堂院、東寺や西寺で用いられた瓦の文様は、平城宮や東大寺などからすんなりとつながったものになっています。しかし、都の造営工事は大規模なものでありますし、経済的にも大きな負担がかかります。
そこで以前の宮殿、平城宮、難波宮、長岡宮といったところから建物がいくつも移されます。記録のうえからも宮城門が平城宮から長岡宮へ移されたことがわかっております。そのような時には瓦もいっしょに運ばれます。ですから、平安宮内からは平城宮、難波宮、長岡宮から運ばれた瓦が大量に出土します。

平安時代なかばごろを過ぎると軒丸瓦の蓮華文は単弁が主流となり、瓦当の直径も小ぶりになります。小形化の傾向は平安時代後期にも及びまして、一部の例外はありますが、小ぶりの瓦で占められるようになります。しかも小ぶりながら大きさも形も千差万別といった状況です。

そして文様の種類は数百種類に及びます。このころ、政府自からが寺や離宮の造営を行う力がすでになくなり、各国に費用を負担させて資材そのものも各国から運びこまれました。そうしたことが瓦にもあらわれており、六勝寺や鳥羽離宮から出土する瓦の中には大和、讃岐、播磨、丹波、尾張などの国で生産されたものが大量に見受けられます。

鎌倉持代の瓦

戦乱もおさまった鎌倉時代には、宗教活動も活発になり寺の建立や修造もさかんに行われるようになります。それとともに瓦作りもさかんになります。

この時代に作られた瓦は大ぶりなものが多くなります。中でも東大寺大仏殿復興のために作られた瓦は、軒丸瓦の直径が20センチ、軒平瓦の幅が33センチもあります。その瓦当面には「東大寺大仏殿瓦」の文字があらわされております。このような文字を瓦当面にあらわすことは鎌倉時代に目立つようになりますが、その多くは寺の名や堂の名です。

しかし、この時代の軒丸瓦の主要な文様は巴文でしょう。巴文は平安時代の終わりころから見られるようになります。まれに二ツ巴がありますが、ほとんど三ツ巴です。巴文の起源については水が渦巻く形からきたもの、火炎が文様化したもの、雲文が変化したものなどの考えほうもあります。巴文は瓦の文様だけでなく、公家や武家の家紋としても広く使われました。鎌倉時代の巴文は頭部が接し、尾部が長く伸びて内区と外区を画する圏線のように見えます。そして珠文が密にめぐらされます。

軒平瓦の文様の主流はやはり唐草文ですが、それらの中には蓮華を横から眺めた形を中心飾りとしたものがあります。初期のものは、仏像の蓮華座を正面から眺めた形をしています。これらのほかに連珠文や剣頭文を飾ったものが作られます。

室町時代の瓦

室町時代も瓦作りがさかんに行われた時代です。近畿地ほうでは、このころに作られた瓦が古い寺院の屋根にまだたくさんのっています。

鎌倉時代のものに比べますと、やや小さくなり軒丸瓦の文様はほとんど巴文で占められます。巴文は頭部がやや離れるようになり尾部もさほど長く伸びません。軒平瓦はやはり唐草文が主体ですが、蓮華文や剣頭文、あるいは中心に巴文をおいてその左右に唐草文が反転するといった文様も使われます。もちろん、寺や堂の名を瓦当面に大きくあらわすことも行われます。

この時代、瓦大工の名で瓦作りの技術者が独立してきます。彼らのうち、大和西の京の橘氏は大量の文字瓦を残しております。彼らは自分の仕事に強い誇りをもってあたっていたことが、瓦に記された文字によってわかります。
そして、いろいろな工夫をこらして機能的な瓦を作っております。軒平瓦の両脇に角のようなものを出した懸りの瓦もこのころに発明されました。この軒平瓦の後に使う二の平を「ハコイタヒラ」と記していますが、まさに羽子板状です。軒丸瓦の凹面には桟をとりつけています。

この時代の終わりころ、城に使われた軒瓦の中には金箔を貼ったものが見られます。また城の軒平瓦には中国でよく見かける舌状の水切りをもつものがあります。中国で「滴水」と呼んでいるのももっともなことに思えます。

江戸時代の瓦

江戸時代には桟瓦が発明されました。このことは、長い瓦の歴史の中で特筆すべきことです。桟瓦は延宝4年(1674)に西村半兵衛という人が工夫してこしらえ、三井寺の万徳院玄関の屋根に使われたのが最初だといわれております。

江戸幕府は当時、たび重なる大火に悩まされておりまして、火事による被害を最少限度にくいとめたかったのでしょう。屋根を瓦葺きにすることを奨励します。はじめは武家屋敷から、そして町人、とくに商家へ広めます。あわせて壁を土蔵と同じようにしっくいで塗り、腰高までをなまこ壁にします。江戸時代の住宅ローンとでも言いましょうか、瓦屋根に改築するために10年間で返済の貸付けもしました。

江戸時代の瓦で大きなできごとがまだ一つあります。それは軒平瓦の文様部が中央寄りに狭くなったことです。両脇の外縁の部分が広くなったのです。軒平瓦の両脇は、どのような文様を飾っても屋根に茸き上げてしまえば軒丸瓦に隠れてまったく見えません。千年もの長い間、なぜそのことに気づかなかったのでしょうか。これもコロンブスの卵の一つのような気がします。

鬼瓦

建物の大棟や降り棟の端を飾る瓦を鬼瓦と呼んでいます。それは、とくに室町時代以降の鬼瓦が立体的な鬼面として作られるようになったからでしょう。飛鳥時代や白鳳時代の鬼瓦はまだ鬼面ではなく、蓮華文を飾っていました。おかしいようですが、それでも鬼瓦と呼んでいます。

邪鬼をあらわした瓦が使われるようになりますのは、奈良時代になってからのことです。悪霊が寄りつくのをさけるためなのでしょう。平城宮や、平城京の寺々でまず使われるようになります。平城宮の鬼瓦は顔を正面に向け、上唇を突出させ、舌を出し、両腕を膝においてうずくまった姿勢の全身像をあらわしたものです。まさに悪霊を強くこばむ形相です。

天平年間には顔面だけの鬼瓦、まさに鬼面文鬼瓦が作られるようになります。注意して見ますと、よく似た顔つきで大小ありますので、大棟用と降り棟用とが使い分けられたのでしょう。平城京の寺々の鬼瓦は額に鋸歯文をおいたり、眼がとび出したりしており宮殿のものと様相がちがいます。このような鬼瓦は、国分寺の造営とともに全国に広まっていきます。

鬼瓦が大きく変化するのは室町時代のことです。その前の鎌倉時代ではまだレリーフ状でしたが、これが立体的になり、しかも耳まで裂けた口、剥き出した牙、眼を吊り上げて天空を眺みつける形相になります。

鴟尾・鯱

鴟尾は、建物の大棟の両端を強く反り上がらせるところに起源があると考えられています。中国漢代の墓に副葬されているミニチュアの建物にはすでに鴟尾が表現されています。

わが国では飛鳥時代からすでに鴟尾が作られており、飛鳥寺から古いタイプのものが出土しています。山田寺や和田廃寺には、胴部に羽根形の文様をもつものが作られております。よく知られたものに法隆寺玉虫厨子金銅製鴟尾があります。

白鳳時代の鴟尾には胴部に珠文帯を設けたり、腹部に蓮華文を飾ったり装飾性が豊かなものとなります。

奈良時代の鴟尾は史料に「沓形」と見えますように、奈良時代の貴族たちがはいた沓に似た形になります。唐招提寺金堂大棟西端の鴟尾が典型的なものです。伝世された奈良時代の鴟尾としては唯一のものです。奈良時代には瓦製の鴟尾があまり作られなかったものか、出土例は多くありません。史料に金胴製鴟尾のことがいくつか見えますので、焼き物よりそのようなものが作られたのでしょう。

平安時代には緑紬の鴟尾が作られたりしますが、あまり多くは作られなかったようです。

中世になると魚形に変化して鯱になります。建物を火災から守るために水にかかわる想像上の海獣を屋根にのせるようになったのでしょう。戦国時代になりますと、鯱はとくに城郭建築に使われるようになります。

特殊な瓦

私たちが今、寺などの大きな屋根を見上げてみますと、屋根が決けして丸瓦・平瓦、軒丸瓦・軒平瓦だけで葺き上げられたものではなく、屋根のいろいろなところに形の変った瓦が使われていることに気づきます。瓦葺き建物が造りはじめられてから、それらは長い年月を経て多くの工夫がこらされて作り出されたものなのです。

いくつかみてみますと、すでに奈良時代に屋根瓦の改良にとりくんでいたことがわかります。屋根瓦ですから、当然のことながら雨仕舞を考えます。軒先には軒丸瓦や軒平瓦がありますからよいのですが、けらばはどうも弱い、と考えたのでしょう。私たちが今ごく普通に見ることができるようなけらばの瓦が奈良山丘陵の瓦窯から発見されています。もちろんこの窯は奈良時代の平城宮の瓦を焼いた窯です。ただ残念ながら、その瓦が平城宮からは1点も出土していませんので、試作品だったようです。

入母屋造りや寄棟造りでは隅木が長く突き出します。そこを風蝕から守るために隅木蓋瓦が作られます。箱形に作って、すっぽりとかぶせるものもありますが、平瓦を転用した簡単なものもあります。垂木の木口には金具の代りに垂木先瓦を使うことがあります。

後世になりますと、降り棟と破風の納めのために留蓋が作られます。そのほか、今では屋根の隅々に各種の瓦が使われています。